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012号墓

ドキュメント内 浦添市文化財調査報告書 | 浦添市 (ページ 83-89)

69 ­第14表 004号墓 銭貨観察表

第4節  012号墓

(1)遺構(第36図〜第37図、図版17)

 012号墓は調査区丘陵の西斜面に位置し、牧港石灰岩の基盤とする丘陵斜面に横穴を掘り込んで墓室を 構築した亀甲墓である。当墓は本調査以前に廃棄された墓で、調査前は墓口が見えないほど埋没していた。

墓口は閉塞されておらず開口していたことから土砂が墓室に流れ込み、出土した蔵骨器のほとんどは割 れた状態で散乱していた。しかし、数基ほどは完形を留め、原位置が分かるものもあった(第38図)。

 チジ(屋根)は亀甲墓で見られるような平面形が馬蹄形を呈しておらず、左右非対称の矩形である。墓庭 から見ると奥の方へ広がる撥状となる。岩盤を約0.15m浅く掘り下げ、チジ中央は緩やかな弧状で成形さ れる。向かって左側に切石が数個残存しており、本来は切石で屋根の周縁を巡らされていたと考えられる。

ヤジョーマーイは見られず、眉両端は岩盤と接していることから、ミジハイ(水はけ口)も見られない。チ ジの表面に石敷きは見なれなかったため、岩盤を削り出した後は盛り土等で表面を仕上げたと考えられ る。マユ(眉)は正面観が緩やかな弧状を呈しており、6個の切石で構成されている。眉端部は微弱に上へ 反るが、肥大しない。009号墓で見られた眉正面の庇部の段差は本墓では見られない。ウーシ(臼)やクヮ ウーシ(子臼)も見られず、眉端部は岩盤に接する。墓正面も岩盤の削り出しで構築され、墓口のジョウカ ブイ(門被い)やジョウハシラ(門柱)は見られない。墓口は高さ約1.2m、幅は上部で約0.6m、下部で0.7m。

奥行(羨道の長さ)約1mである。サンミデー(供物台)は幅約2.4m、奥行約0.95mで岩盤による削り出しで 構築されるが、縁の部分に一部切石が使用されている。カビアンジは見られない。スディイシ(袖石)は墓 正面左右に、岩盤削り出しの1段で構成される。向かって左側の袖石の角部分は切石を使用して面を揃え ている。墓庭も岩盤の削り出しで構築され、岩盤の窪みに小礫が多く含まれる締まりの強い褐色砂質土

(7.5YR4/4)が重鎮され、その上に暗褐色砂質土の旧表土が見られた。ナージミー(庭積み)も岩盤を削り出 して成形している。左側のナージミーの高さは約1.7mを測る。明確なワラビヌティ(童の手)は見られな かったが、両ナージミーとも上部に段差がある。ジョー(門)は見られないため墓庭の法量は掴めないが、

ナージミーで囲まれる範囲は奥行約4.3m、幅約6.3mを測る。墓庭北側で埋納獣骨が検出された。検出され た埋納骨の詳細については、第6章を参照いただきたい。

 墓室は幅約3.1m、奥行き約2.6m、シルヒラシから天井まで の高さ約1.5mを測る。牧港石灰岩の岩盤に横穴を掘り込んで 構築される。タナ(棚)は奥側に一段、左右に一段のコの字状で 奥棚と左右棚に段差が見られることから3類b型に相当する。

墓室の平面観は四隅の陵が緩い楕円状で、左右棚の位置は非対 称である。棚は全て岩盤を削り出して造られている。壁面や天 井は岩盤の細かな凹凸が見られ、全体的に雑な仕上げの印象で ある。シルヒラシは横約2.0m、奥行き約1.9mを測り、石灰岩を 砕いた小礫と石粉が混じった明黄褐色砂を敷き均している。

 本墓の造営年代は不明だが、墓の使用時期は検出されたボー ジャー形で最も古いものは1740〜1770年の資料であること を考慮すると、18世紀の中頃から始まり、マンガン釉甕形で安 里編年Ⅲ〜Ⅳ期(1810〜1870年)の資料より19世紀終わり頃

まで使用された墓であると考えられる。

(2)遺物(第39図〜第40図、図版57〜図版58)

 012号墓からは蔵骨器、沖縄産陶器、本土産磁器、金属製品が 得られた。蔵骨器はボージャー形、甕形、庇付甕形、御殿形が出 土している。墓室からの出土であるが、そのほとんどが破損し、 原位置を保つものはシルヒラシで壁際に安置された数基で あった(第38図)。以下、残存状況の良好なものを図化した。銘書 から内間姓、仲嘉間姓、比嘉姓を確認できた。

 蔵骨器1(第39図149、150)はシルヒラシの北東の角に安置 されていたボージャー形である。蓋はつまみが扁平形で蓋裏の 中心部は無孔である。径7.7㎝のつまみ台が見られ、体部は無文 である。鍔端部の中央が浅く窪む。安里分類のⅤa式(1740〜 1770)の資料である。身は頸部沈線が2本、胴部は無文で、マド 枠は平葺形が貼り付けられる。マド枠の上部に見られる短い波

状文はカマ印と思われる。安里分類のⅢa式(1700〜1800)に相当する資料である。両者の絞り込みから 1740〜1770年の資料と考えられる。

 蔵骨器3(第39図151、152)は左棚の前方に安置された蔵骨器でボージャー形である。蓋はつまみは扁 平形で蓋裏の中心部は無孔である。つまみ台は見られず、体部は無文である。安里分類のⅤb式(1740〜 1770)の資料である。身は頸部沈線が2本、胴部は無文で、平葺形のマド枠が貼り付けられる。最大胴径は 胴部横帯の下部沈線にあり32.0㎝を測る。マド枠右上方にカマ印が見られる。安里分類のⅢa式(1700〜 1800)の資料である。両者の絞り込みから1740〜1770年の資料と考えられる。蓋裏に銘書があり「仲嘉間 筑登之/女子/蒲■[戸カ]と読める。銘書より被葬者は「仲嘉間筑登之女子蒲戸」ということが分かる。  第39図153はボージャー形で接合により復元できた資料。頸部沈線は2本を数え、胴部は無文である。平 葺形のマド枠が貼り付けられる。マド枠の左上方にカマ印が見られる。焼成不良により器形が歪む。安里 分類のⅢa式(1700〜1800)の資料と見られる。

 蔵骨器2(第39図154、155)は器形がボージャー形とマンガン釉甕形の両方の類似点が見られる資料で、 安里分類の無釉甕形と考えられる資料である。器面にマンガン釉は施釉されず焼しめられている。蓋は ボージャー形でつまみやつまみ台が見られない笠形である。蓋上部の調整が粗い。安里分類のⅤa式(1740

〜1770)に相当する。身は口縁部が直口し、口唇部は平坦である。横帯1は2条の沈線が見られ、横帯2は 突帯が1条見られる。横帯が口縁部、頸部にある点はマンガン甕形と共通する。しかし横帯3、4はなく、 ボージャー形で見られる胴部横帯の沈線が上下に1条ずつ見られる。貼り付けられたマド枠も唐破風形 で1円2円と見られ、唐破風の頂部に玉飾りの跡が見られた。安里編年ではマンガン釉甕形のⅠ期(1760

〜1770年代)に該当する資料で、ボージャー形ではⅦ式(1750〜1820年)にあたる資料である。銘書が蓋 及び身で見られた。蓋裏では「内間筑登之女子/ま加戸/同人女子/まさ」と読めた。身の胴部で見られた 銘書は大部分が薄れていたが「嘉■[慶カ]■■[拾カ]…七月七日洗骨/…■戸/…」と読め、嘉慶年間

(1796〜1820年。二桁台の年代だと1805〜1820年となる)の洗骨ということが分かる。銘書より被葬者は

「内間筑登之女子ま加戸」とその女子の「まさ」の二人だということが分かる。

 第40図156はマンガン釉甕形の身である。墓室シルヒラシから出土。横帯1は沈線が2条、横帯2は突帯

が2条施される。肩部文様帯は櫛描波状文が2条施され、胴部文様帯は貼り付けの蓮華文、茎の部分は沈 線で表現される。蓮華の上の法師像は貼り付け。胴下部文様帯にも櫛描波状文が2条施される。屋門は貼 り付けのアーチ形で柱貫が見られ、頂部には花形の円文が見られる。安里編年のⅢ期〜Ⅳ期(1810〜1890 年代)の資料。屋門に銘書が見られ「道光弐■壱■■■…七月廿日/■間筑登之」と読める。道光21年

(1841)に■間筑登之(内間?)が洗骨または死去したことが分かる。

 第40図157はボージャー形の蓋である。墓室から出土。つまみは扁平形で蓋裏の中心は無孔。径8.3㎝の つまみ台が見られる。胴部は無文。銘書は見られないが、内面中央に十字を丸で囲んだ墨書が見られた。器 形より安里分類のⅤa式(1740〜1770)に相当する資料である。

 第40図158はマンガン釉甕形の蓋である。つまみは宝珠形で径11.8㎝のつまみ台が1段。体部が丸みを 持って張り、内外面ともに回転ナデ調整が施され全体的に丁寧な造りである。蓋内面に銘書が見られ「乾 隆二十一年/丙甲五月廿五日去/比嘉筑登之男子/比嘉筑登之親雲上」とある。被葬者は乾隆21年

(1756)に死去した比嘉筑登之の男子で「比嘉筑登之親雲上」ということが分かる。

 第40図159はマンガン釉甕形の蓋である。つまみは宝珠形で径13.3㎝のつまみ台が1段見られる。鍔は 平坦で端部の中央が浅く窪む。内外面ともに回転ナデ調整が施され、全体的に丁寧な造りである。蓋内面 に銘書が見られ「本空妙性禅定尼/乾隆四拾九年甲辰/九月初六日死去/同五拾年乙己七月九日洗骨/

比嘉筑登之/妻/本名なへ」とある。戒名を持つことから寺との関係性があり、乾隆49年(1784)に死去し、

翌年の乾隆50年(1785)に洗骨されたことが分かる。

 第40図160は赤焼御殿形の蓋である。検出は奥棚で向かって左端にあったが、蓋のみで置かれた状態で の検出であったため、原位置ではないと判断した。屋根は寄棟造りで大棟の両端に一対の鯱を施す。降棟 の先は獅子頭を正面・背面の両面に貼り付ける。正面・背面とも白化粧後に体部には花文を描き、両側面は 蓮華文を描く。軒に墨で縦線を等間隔で描いており、垂木の表現と考えられる。上江洲編年の1680年〜

1780年の資料である。ただし、同じ赤焼系統でも寄棟になったものは1764〜1770年代に集中する註1とあ ることから、本蔵骨器もその間の資料と想定される。銘書は見られない。

 副葬品は本土産の碗類や沖縄産陶器の瓶や碗、円盤状製品、鉄釘が出土した。その内、残存状況が良好の 以下の3点を図化した。

 第40図161は沖縄産施釉陶器の瓶で、法量は口径2.4㎝、器高14.1㎝、底径5.3㎝を測る。畳付と内面以外 は光沢のある瑠璃釉を施す。焼成時に隣接した製品と溶着による痕跡が見られる。素地は浅黄褐色を呈す る。墓庭から出土した。

 第40図162は沖縄産施釉陶器の瓶で、法量は口径1.9㎝、器高11.2㎝、底径6.7㎝を測る。白化粧に透明釉 を施す。外面は畳付以外の全面に、内面は口縁内に施釉される。畳付にはアルミナ、高台の内外には白色細 砂が付着する。外面にコバルトと飴釉の線条文を施す。素地は浅黄橙色を呈する。墓庭から出土した。

 第40図163は沖縄産無釉陶器を円形に打割成形した円盤状製品である。法量は縦3.4㎝、横2.9㎝、厚さ 0.9㎝を測る。素地はにぶい赤褐色を呈する。墓庭からの出土。

<参考文献>

註1:沖縄県立博物館・美術館・2008年『ずしがめの世界』

ドキュメント内 浦添市文化財調査報告書 | 浦添市 (ページ 83-89)

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